生きているということ

人は何故生きるのだろうか、という問いを投げかけられた。

 

きっと10年前の僕だったら、せっくしゅ!!!!!おまんこ!!!!!!そう答えていただろう。だけど今は違う。僕だってもう30歳を越えているのだから。

まさか膣の味を満足に知ることも、顔面騎乗で女性器を顔に擦りつけられすぎて呼吸困難になることも、クンニのしすぎで唇が腫れぼったくなることもないまま30オーバーになるなんて思っても見なかったが、それでもほんのちょっとはきっと以前より成長しているだろう。だって以前は無理だった人妻モノでシコれるのだから。くたくたになった乳首に郷愁を感じるのだから。色褪せた乳首に安堵を覚えるのだから。

そう、セックスだけが全てじゃない。フェラチオだってあるし手コキだってある。パイズリ大いに結構。互いに自慰を見せつけあう、それも人生だろう。僕は少し、挿入するという行為に取り憑かれすぎていたのだ。


まず始めに、僕には生物学を始めとする自然科学的な知識はもちろん備わっていないし、哲学的であったり人間科学的な側面から人とは何なのかと教育機関できちんと学んだこともない。学んでいたとしてもとうの昔にそんなものは忘却している。という逃げ道を用意させてほしい。

つまりこれはあくまで僕の勝手な妄想だとかそういった類の物であって、それはつまりゴンとキルアどっちが受けだと考えるかという話と同等のものである。よってどう思おうが、口を挟むんじゃねえっていうことだ。キルアには受けであって欲しいってことなんだ。精液にまみれて紅潮しているクラピカはえっちということなんだ。


きっとクレバーな皆様からしたら、お前の言っている事は全然違う……と思うこともあるだろう。筋が通ってないと思うこともあるだろう。だが真実がどうだとかなんて言うのは僕にとってはどうだって良いんだ。筋なんて知ったこっちゃない。この世に筋が通っているとすればそれは一本だけ、マンスジだ。

 

僕はインターネットなんぞには、真夏に冷房のない部屋で行われる汗ばんだシックスナインのようなねっとりとした同意や賛同と言った形の愛撫しか求めていないし、電脳世界なんてそうやって互いに傷を舐め合うぬるま湯の世界でいいじゃないと思っているのに、少しでも油断をすれば意図せぬ方向から、私はそうは思わないだとか、それは間違っているみたいなリプライが飛んできて、あっという間に僕の心は暗黒面へと堕ちていくのだ。ペニスとともにあらんことを。ジェダイの騎士ならそうだろう?

そりゃあ中には議論を交わすことを目的にインターネットをしている人もいるだろう。平成の剣客だ。別にその人の意思を否定したいわけではない。ただ、僕にはその陰茎擦りつけバトルに参戦する意思はないし、そのドス黒い刃を僕に対しては向けないで欲しい。

今回みたいな明確な答えの存在しないテーマについてなら尚更だ。人それぞれ考えがあるだろう。もし優しさというものを持ち合わせているという自覚があるのならば、反論だとかそういった類の事はせめてそれは全く僕の目につかない所でやっていただきたい。「カンカンカンカン、晩餐館、陰茎剥いても牙向くな。」昔よく耳にしたCMでもこう言っているように。


さあ本題に入ろう。
なぜ人が生きているかなんていうのは、テメェの親がセックスしたから以外の何でもなくて。とどのつまり親に、自分ら何でセックスしたん?って聞くのがマッチベターな解の導き方だ。

気持ちよかったから、愛してたから、子どもが欲しかったから、そんな答えが返ってきたらそれはつまり意味なんかないってことだ。

 

たまたまセックスしてタマタマは揺れていて卵子精子がゴッツンコしてたまたま受精、タマタマは空っぽ。結果、新しい生命が誕生した。それが僕たちだ。

たったそれだけのことなのに、どうして生きていることに意味なんてあるのだろうか?自分が生きていることにはなにか意味があるのではないか?などと考えるのは驕りなのではないか。そうはお思いになりませんでしょうか。

 

だってそうでしょう?僕たちの親は、僕たちという個体を欲して性交をカマしたのかと言えば、決してそうじゃない。
着床させて、子どもが生まれた。生まれた子どもにはこんな人間に育ってほしいという思惑があっただろう。そう願いを込めて美しい名前をつけたのだろう。
チンポが太くなって欲しいから名前に太という漢字を使ったのかもしれないし、左曲がりのチンポは嫌だから真っ直ぐの真や直という漢字を用いたかもしれないし、マン毛が華のように咲き誇って欲しいから咲くだとか華という漢字を組み込んだのかもしれない。

だが実際の所、それの通りになった人もいるだろうが、多くの人はきっとそうじゃない。
僕たちはまったくの偶然が積み重なった結果今現在存在する人格になっただけで、親や他の誰かにそう望まれたからこういう人間になったわけでもなければ、最初からそうプログラミングされていたとも僕は思わない。

 

僕たちは器に注がれた液体のようなものだ。
生まれた当初肉体、躯という器だけが存在した。そこに、やれ社会がどうだ人生がどうだと頭を悩ませたがる人間性、自我というまるで液体のような掴みどころのない物が注がれた。

そして、なぜ生きるのかなどとは、後から注がれた液体のほうが勝手に考え込んでいるだけなのだ。
液体を注がれた方からしたらそんなもの知ったこっちゃあないだろう。つまり生きる意味、そんなものは存在しておらず、それはおぼろげに揺らめく陽炎のような存在なのではないだろうか。


だからといって、意味がない?じゃあ死ねばいいんですね、はいはい。なんて早まらないでほしい。いや死ぬのは勝手だがせめて、せめて死ぬ前に皆さんの性器を僕に貸してほしい。みんなの性器にオラの元気玉を……。

 

……コホン。君たちはいつもそうだ。イエスかノーしかない。黒か白。ちんこかまんこ。
だけど世界にはふたなりがある。そう、ふたなりはイエスでもノーでもない第三の可能性なんだ。可能性は無限大。つまりふたなりは……無限大……?はて……?


僕たちが生きていることに意味など存在しなくとも、生きる目的というものがあるのではないだろうか。少なくとも僕はそう思う。
人は、自分が確かにこの世界に存在していたということを”何らかの形”で残すことを目的に生きていけばいいのだ。生きる意味の有無などとは無関係に。

 

自分がこの世に居たということの証明、”何らかの形”の一番手っ取り早いものが子孫というやつだ。それこそが僕たちがこの世に存在したという証明になり得る。
だから僕たちはセックスをする。だから乳房でチンポが膨張する。だからアワビで女性器を連想する。だから筒状のものがあったらちんちんを挿入したくなる、それがトイレットペーパーの芯であっても。

ああ、結局セックスか。こいつは結局最終的にセックスに結びつけるのかと皆さんはうんざりするかもしれない。だが今回に限ってはそれだけじゃない。

 

僕たちは人間だ。2本の足で立ち、手で道具を使うことができる。道具を使って何かを残すことができる。テンガを使って気持ちよくなることができる。それが他の動物との違いだ。
例えば洞窟に壁画を残すだろう。例えば粘土を捏ねて造形物を作るだろう。例えば文字数や韻を踏むことに拘って言葉を紡ぐだろう、例えば裸婦の絵を描いて自分でセンズリをこくだろう。

そう、子孫を残す以外の方法でも自分がこの世に存在したということを人間は刻むことができる。だからセックスができないからと言って悲観することはない。子孫を残さない同性愛が悪いとも思わない。
なにも芸術的活動、創作活動が全てではない。現代で言えばSNSに何かを投稿することだってそれに当たるのかもしれない。
無意識的に何かを残すことが目的だと理解しているから、TwitterInstagramにのめり込むのかもしれない。

ひょっとしたら、他人と関わって、自分がこの世に存在していたということをどこかに、誰かに残したいという目的を頭の何処かで理解しているから、誰かと居たい、一人は不安で寂しいという感情が湧いてくるのかもしれない。

SNSで他人とやりとりをするのも、skypeやdiscordで誰かと通話するのも、僕たちがここに存在していたのだと爪痕を残そうともがき続けている行為だとしたら、生きていることに意味なんかなくたって、創作活動に打ち込んでいなくたって、それだけで僕は十分だと思う。


ただ、この目的というのはとても厄介な側面を含んでいる。それは明確なゴールが存在しないということだ。一体自分の何が後世に残るかなんていうのはわからない。誰かと寄り添ってい生きていっても、自分が死ねばきっと大半の人は忘れていってしまう。
子どもを育てたって自分より先に死ぬかもしれないし、何かを残そうと創作してもそれが残る保証などはどこにもない。
何万という投稿をSNSにしても誰の心にも響かないことだってあるだろう。逆に何気ない一言が誰かの心の中に一生残り続けるかもしれない。
ゴールがみえないから不安になる。
だから人は、生きる意味とは……などと考え込むのだろう。だからこそ常にもがき続けているのだろう。一体いつになったら目的が達成されるかわからない、だからこそ死ぬ訳にはいかないし、不安を抱きながらもこうしてなんとなく生きながらえている。それこそが僕たちが生き続けている理由なのだろう。

だが、そうやって考えて、苦しみからこそ人は輝くんだ。石を磨いて宝石にするように、チンポは擦らなきゃ射精しないように、人間は悩まなければ輝かない。


生きる意味と生きる目的、それは一緒のようで少し違う。
意味なんてなくたって目的を見い出せばいい。他人から見たらクソを壁に塗りつけているようにしか見えないかもしれない。それでも別にいい。
僕がこうやってブログを書くことだってそうなのだ。
これを読んだどこかの誰かが10年後にふと、そういえばと僕のことを一瞬でも思い出せば、生きる意味なんてなくても生きていた意味はあったということになる。
その可能性が0.001%でもある以上僕はこうして今日もインターネットに向かって自分が生きていたという証を刻み続けていく。