喫茶店にて

(この文章はおしゃれなジャズが流れる喫茶店で書かれました。皆様も喫茶店にてジャズと共にご一読下さい)

 

 

 

 

昨日の夜、布団に入り、眠りにつく前に考えたことを少し書き綴りたいと思う。
僕が学生の頃、大塚愛さくらんぼという歌がとても流行った。

 

笑顔咲く君と抱き合ってたい
もし遠い未来を予想するのなら
愛し合う二人いつのときも
隣同士アナルと私デカチンポ(もう一回)

 

たしかこんな歌詞だった。何の変哲もないアナルとチンポの、つまり男同士のラブソングだ。
だがそこから更に一歩踏み込んで思考を巡らせると興味深いことに気がつく。
隣同士アナルと私デカチンポ、この一文によって人間の肉体の構造的にアナルとチンポが隣同士に存在していたことに気付かされる。そうアナルとチンポはお隣さん同士だったのだ。

そして、ここで思い出してみて欲しいのは、イエス・キリストのことだ。
そのイエスが唱えたのは隣人愛である。神を愛すると共に、隣人も愛しなさいと。つまりチンポを持っているのならば、アナルも愛せということだ。逆に言えばアナルを持っているのならチンポを愛せと。
なるほど、だからキリスト教信者が多くを占める白人の洋物では呼吸をするかのごとくアナルセックスをするのだろう。アナルセックス、それは愛なのだ。
この歌に、そんな深い意味までもが存在しただなんて。
僕は驚愕した。さくらんぼという歌は、同性愛におけるアナルセックスだけでなく、この世に存在する全てのアナルセックス賛歌であり愛の歌だということだ。
そして一言付け加えておくと、自分のことをデカチンポだと言いきる、この自己肯定感。他人なんて関係ない、誰が何と言おうと俺はデカチンポなんだ。この最後の一言によって、聞き手である僕自身も前向きになろうという気持ちになれる。
なんて素敵な歌なのだろう。そう気づくと心が落ち着いたのか僕はぐっすりと眠りに落ちていった。

 

……などという与太話はこのぐらいにしておこう。ここからが今日の本題だ。

 

もし突然、めちゃくちゃ臭い女性器を舐めたくなったらどうするのか。
などと言うことを、一杯のコーヒーの香りを鼻の奥いっぱいまで吸い込み、ゆっくりと口へと運び、ソファーに深く腰を下ろし、目を閉じて瞼で陽の光を浴びながらゆっくりと考えた。外は相も変わらず寒そうで、目をやると通行人は皆背中を丸めて歩いている。
ブルーチーズだとか、くさやの匂いを嗅げばいいのだろうか。違う、クンニはそんなに単純じゃない。僕は必死に脳から記憶を引っ張り出し、ブルーチーズの匂いを思い出そうとする。
嗚呼めちゃくちゃ臭い女性器を舐めたい。そんな気持ちに呼応するかのようにウッドベースが跳ねている。軽快なジャズを聞きながらゆっくりと目を開く。

 

クンニリングス、それは平成の御恩と奉公などと人は言う。
クンニリングスに秘められたし日本男児の心、大和魂。武士は挿れねどクンニリングス。男ならばクンニリングスに人生をかけるべきだったのだ。
学生時代、クンニが好きで何時間でもクンニをすることが出来ると飲みの席で語っていた先輩をクソヒゲクンニなどと呼んだこともあったけれど、それは無知な僕が間違っていたのだけの話だ。そんな女性器の臭いとは無縁のただ青臭いばかりの日々を思い出すだけで恥ずかしい、穴があったら丁寧に愛撫してから入りたい。
まん毛が濃いからなんだっていうんだ、臭いからなんだっていうんだ。男は黙ってクンニをしろ。くさい女性器をクンニしろ。9×2=18(クンニは嫌)なんて数式に騙されるな、式に当てはめることなんてできないからこそ人生なのだ。LIFE is KUNNI.

 

クンニ好きを旦那にしろ。
そんな言葉が女性誌を彩る時代だ。クンニが好きな男性は掃除が好きだし、尽くしてくれる。そういうイメージを持たれやすいらしい。
クンニの好き嫌いで結婚さえも決まってしまう。時代はクンニによって突き動かされている、そんな所まできたのだ。つまり、クンニのために舌を突き動かしている僕達が、時代を担っているとも言う。だったらクンニをするしかないじゃない。
そう考え、舌先がゆっくりと動き始める。舐め回すようにサックスが吹かれているジャズのリズムに合わせながら。
クンニという字は、互いに支え合ってクンニになる。昔のドラマにあったそんな一言を思い出す。やはり我々は一度、挿入前のクンニリングスのような初心に立ち返るべきなのだろう。

 

さて、ここで一つ大事な告白をしよう。僕がクンニ至上主義者ではないどころかクンニという行為に及んだことがない、ということだ。

だがそれがどうしたというのだ。クンニもしたことのねえガキはママのおっぱいでも吸ってろと、貴方は鼻で笑うのだろうか。クンニをしたことがなければクンニを語ってはいけないのか。
確かに百聞は一見にしかずという言葉はある。だがそんなものは愛情と感謝の気持ちでカバーできる、それがクンニズムだ。
クンニビギナーがクンニを語ったって良いのだ。プロクンニャーが、ちょっと舌先が器用だからなどと言って、胡座をかき他人を馬鹿にしていれば、いつかきっと痛い目を見る。
クンニという行為、ただ舐めればいいってもんじゃない。舌先から気持ちがクリトリスの先端を伝って女性に届くのだ。つまりアマチュアのクンニストでも恥じることはないし、クンニビギナーだって心がこもっていればいいのだ。


そもそも、〜〜をしたことがないから〜〜を語ってはいけないなど、おかしな話ではないだろうか。ならば死んだことのない哲学者に対して、生と死について語るなと言うのだろうか。

そうじゃあないだろう。クンニっていうのはジャズなのだ。舌先と女性器のセッションなのだ。その日のムードや互いの気分によってコードの進行が違う、ジャズなのだ。

 

ゆっくりと読書をしに来たつもりだったのに、鳴り響くジャズのせいでクンニについて思わず耽ってしまった。やれやれと心のなかで呟き、僕は開いたまま1ページも読んでいなかった本をゆっくりと閉じ、レジへと行きお会計を済まし、店をでた。店内ではジャズトランペットの音が鳴っていた。

グッバイ、クンニリングス。