告白

僕は自分の書く文章が昔から嫌いだった。

 
時折、インターネットという広大な宇宙の中で輝きつづける唯一無二の星になれ!みたいな感情を、勢いに任せて書き殴ってきたけれど、毎回次の日の朝なんかに冷静になって読み返してみるとあまりにもどうしようもなくて、30過ぎたおじさんの書いた文章がコレかよ!?と酷く塞ぎ込んで全部消したくなるくらい気分が悪くなる。

 

インターネット上ではプロ・アマ問わず様々な人の書いた文章を読む事ができる。それに目をやると、自分の文章の稚拙さを改めて感じてしまい、とても落ち込む。別に絵がめちゃくちゃ上手い人のマンガが絶対に面白いわけじゃないように、文章にだってそれは同じことは言えるのかもしれない。だけれど、それでも上手い方がいいに決まってるし、自分がそれに当てはまるとは全く思えない。僕は勢いに任せただけの自分の文章が余りにも独りよがり過ぎてとにかく嫌いだ。

 

ただ問題はそこではない。問題なのは、そう思っていながらもそれを改善するための努力を一切してこなかったことだ。
誰かにそんなことないよだなんて慰めの言葉を言ってもらいたいだとかそういうことじゃなくて、これはそういう僕がいたという、自分の文章が嫌いだと思いながらも、何を努力するわけでもなく、もっと伸びろ!俺をちやほやしろ!なんて他力本願で、自分勝手なことを考えながら常に誰かのせいにして、今まで自分と向き合うことに目を背け続けてきたという懺悔とも言える告白だ。

 

僕には本を読むという習慣がない。
今年に入ってからは本を一冊たりとも読んでないかもしれない。本を読むことは全く好きではないし、文章で何かを表現するという行為に何か思い入れがあるわけでもない。それなのに上手な文章が書きたいだなんて自分でもひどく我儘な話だと思う。僕は結局のところ、文章を書くという行為を、自分が気持ちよくなるための道具程度にしか思っていなくって、読書や文章を書くことが好きで好きでたまらなくて、誰かに言葉を使って何かを伝えたい人との間にはどうやっても超えることの出来ない壁があって当然なのだ。

 

そもそも文章を書き始めたきっかけそのものが、ちやほやされたかったからにすぎなくて、mixiというSNSで同級生を始めとする不特定多数に「どや、自分面白いやろ!」などと面白くもない文章を書き始めたことが始まりだ。振り返ってみると、なかなかどうして恥ずかしい。
当時は暇つぶしとして、既にブームが終焉を迎えつつあったのだけれども、後乗りで様々なテキストサイトやブログを読んでいた。その世界はとても華があるように思えて、今まで自分の脳内に存在しなかった文字列が燦々と散りばめられていて、自分もこういう風に何か書いてちやほやされてえ!と思い、ほぼ真似事のような文章をmixiの日記に投稿していた。

 

ちやほやされたいだけ、本当にそれだけだった。
今になって考えると、現実世界でパッとせず、面と向かってでは誰かに何かを主張することもできない俗に言う陰キャという人種の人間が、相手の顔が見えないという特性を持ち合わせたインターネットで、イキがっていただけだなと思う。同級生はその頃男女で仲良く飲み会をしたりなんだと懇ろな関係を築いていたのに、僕は一人、空虚に向かってシコっていただけ。哀れすぎて悲しみも湧き上がってこない。

 

余りにも陰キャを拗らせすぎた僕は、そしてこの、どうにかしてちやほやされたいという期間がとても、とても長いこと続くようになる。もっとやるべきことは幾らでもあった。例えば何かしらの資格を取るために勉強するだとか、スポーツに打ち込んでみるだとか、話の合う友人を見つけ交友関係を深めるだとか。
この「アドベントカレンダー」と称して12月から毎日のようにブログの投稿を始めた動機も、結局、今まで何の努力もしてこなかったことを棚に上げて、うだつの上がらない毎日から目を背けてインターネットでちやほやされたいと思ったからだ。
毎日毎日しょうもねえ肉体労働。ブログを書けば誰かが見つけてくれて優しい言葉を掛けてくれてこの世界から救い出してくれるんじゃなんて夢を抱いていた。

 

現実は創作話なんかよりもよっぽど辛辣で、見ていてくれる誰かなど居なくて、何の努力もしないしょうもねえ人間は何時までたってもしょうもねえまま、時間だけが刻一刻と流れていく。結局自分の環境が変わることはなく、しょうもない記事だけが増え続けた。
それだけなのだが、しかし心にはある変化があらわれた。

今まではちきれんばかりだった、ちやほやされたいという気持ちが少しずつ空気が抜けていく風船のように日に日に縮小していった。無くなったと言えば嘘になるし、ちやほやされれば勿論嬉しくって画面を見ては独りでニタニタするのだろうけれど、されなく当たり前だと思えるようになった。

 

以前はブログを更新した後はアクセス数ばかりが気になって気になって仕方なくて、頻繁にアクセス数をチェックしていたのだけれど、結局見てる人は自分だけで落ち込んで、さらに読み返して落ち込んで、みたいな感じだった。
けど最近では、アクセス数を見ることは見るけど、何人だろうと例え0人でも、まあそんなもんだよなあくらいの気持ちでいれることができる。

 

何の努力もしない自分なんかがちやほやされるわけがないと、自分の実力で他人から評価されようなんて痴がましいと、現実を見ることができるようになった。
何がきっかけなのかはわからない。もしかしたら毎日自分でブログを書くと決めた以上はきちんとやらなければと気負い、ここ最近は毎日毎日何かを書かなければということばかりに必死になり、他人の評価なんかどうでもよくなったのかもしれない。
次第にアイディア、ネタが枯渇して、何も書けなくなってくる自分と対峙し、それでも何か書かなければと、考え込む時間が増えたことで、自分と向き合うことが出来たのからなのかもしれない。

 

これは絶望や諦めなどではない。
相も変わらず自分の文章は好きではないし、他の人の文章を見れば落ち込むのだけれど、それでもこの些細な変化は自分にとって良かったのだと思う。今回をきっかけに、今までの自分を受け入れて、少しは何かを頑張ってみようかなどと思えるようになった。
あんまり大した違いはないように感じるのかもしれないが、この些細な変化が何かをする際にはとても大切なことなんじゃないのだろうか。

 

誰かに評価されたいという思いから、自分のために何かしようみたいな気持ちに変わりつつある。まだ後者へ完全に移りきっているとは言い難いのだけれど。
誰かに見てちやほやされたい!という気持ちではなくて、卑屈な気持ちではなく前向きにどうせ誰も見てないしという気持ちでいると、変に肩肘張ることなく、開き直って力を抜いて好き勝手できるし、おかげでこんな文章を書くことも出来ている。

 

それに見てくれる人が0でも良いんだけど、完全に0というわけではなく何人かは目にしてくれる人がいて。それは例えば小学校の時に休み時間に友だち数人で集まって教室の隅っこでノートにマンガを描いて、互いにああだこうだ言って内輪で盛り上がってるみたいな、そんな規模でも自分とその数人の友だちが楽しければそれでいいのかな、それが創作の基本であってとても大切なことなのかななんて思ったりして。

 

そういう人に感謝しながら、気が向いた時に文章を書けたらいいかなどと思うようになってきた。

辛気臭い文章になってしまったけれど、毎度毎度飽きずに最後まで読んでくれる人がもしいたら、ありがとう。日付が変わり、次この文章を読んだ時にはまた落ち込んでいるんだろうななどと考えると苦い顔をすることしかできないけれど、今後もよろしくお願いします。