M性感のすゝめ

天は人の上に人を作らず
かの有名な福沢諭吉はこう言った。 

 

恥ずかしながら僕は彼の著書、学問のすすめを最後まで読みきったことがない。

しかし、彼が言いたかったこと、この文章が意図していることが何かは容易に想像できる。


人を作る……これがセックスを指すのは明白である。

じゃあ人を作らずとは?
そうです。アナルセックスです、正解!


つまり、天は人の上にてアナルセックスをしろ。という意味の文章になる。

それでは「人の上に」とは一体どういうことか?

 

これも簡単な話で、上か下かというよりもわかりやすく説明すると要は前か後ろかの問題なのである。

ちんちんの上、つまりおちんちんをそっと上から覆う肛門さんサイド、つまり前、そう、掘られる側でいろと。

ああ、なんとありがたい話なのだろうか。

一万円札にもなっている福沢諭吉御大は、「天(TEN=10K=1万円)を余分に払ってでもいいからアナルセックスをしろ、アナルを思いっきり突かれろ。」と。そう説いたということだ。

それなのにだ、いい大学出のご立派な学者がですよ、好き勝手に平等がどうのだとか学問がどうだとか勝手な解釈するもんだから、その結果がこれよ、これ。

全然違う。全く分かっていやしねえ。

 もう一度言おう、天は人の上に人を作らずとは、金を払ってアナルを掘られろ。という意味なのだ。

 サディストはクソだ、人類はマゾヒストであれ。

そういうことなのだろう。

 

SかMかという問答を大半の方がかわしたことがあると思う。

SとM、人それぞれ思う所があるだろう。

しかし、サディストがクソなのは明白であり。僕たちはマゾ、ひいてはドMであらなければいけない。

いや、訂正させて欲しい。サディストは決してクソではない。女王様は素晴らしい。女王様が居てくださるから、我々が存在できる。女王様の叱咤激励、ご褒美があるから明日も頑張ろうと思える。ただそれはあまりにも上級者向けすぎであるのだ。自らをサディスト、Sであるとは熟練した聖者以外が容易に名乗って良いものではない。ろくに修行も積んでおらずお経のおの字もわからねえ坊さんに、葬式を任せたくないのと一緒だ。

 

習うより慣れろということわざがある。踏むより、踏まれろ。そういうことなのだ。

他人を踏む立場にたって考えてみて欲しい。寝そべっている人を、さてどうやって踏むか。

ただ闇雲に踏めば良いわけではない。

いやいや待ってくれ、出鱈目に踏んでもこいつはギンギンに勃起させながら喜んでいるじゃないかと、あなたはそういうかもしれない。

しかし、それが踏まれる側の気遣いであることに気づけていないようではサディストとして失格だ。それに勃起は仕方ないのだ。気づいたらしているのだから。そういう体質だと思って見逃して欲しい。

 

無闇矢鱈に踏まれた時、我々下僕はどういう反応をしたらご主人様が喜ぶかを考えて行動を取っているのである。

だってそうでしょう?踏んでもらっているのに、違う違う!そうじゃない!と文句を言うドMがいるだろうか?否、それはドMではない。我々の仕事の本質は、踏まれて気持ちいいということではなく、踏んでいるご主人様を喜ばせることにある。だからどうされたって喜ぶしかないのだ。

それなのに自称Sときたら……だ。だから何も分かっていないと言わざるをえないし、これが熟練者しかサディストを名乗るべきではないという所以である。

 

SMプレイというのはSによるMへの一方的な攻撃、攻めなどでは決してない。

これはSとMの対等な組手なのである。互いが互いのことを思いやっている、それは日常の、電車内での席の譲り合いだとか、近所の方々と交わし合う挨拶だとか、落ちてるゴミを拾うだとかそういったことと何ら代わりのない行為なのだ。

 

簡単な話だ。ドM豚野郎のどこをどう踏んだら、本当に喜ばすことができるか。それを理解するには自分が一度マゾの道を通る。MにならずしてMの気持ちをわかるのは天性のMだけだろう。故に、真のサディストであるならばマゾヒストの道を通らざるをえないのである。だから僕たち初心者はマゾであるべきなのだ。自分がサドかどうかは考えるのはマゾとしての鍛錬を積み重ねてからでいい。

 

それらしい口当たりの良い言葉で濁すならば、相手のことを理解するためには相手の立場に立ってみるべきとでも言えばよいだろうか。僕が言っているのはそういうことなのだ。

マゾの立場を知っているからこそ、サドの立場に立てる。そして、その場数は多ければ多い方が良い。SMとは人生の縮図なのである。

 

そしてドMである方が良い理由がもう一点ある。

痛めつけられて喜ぶのがマゾだが、それはつまり痛みを恐れないという解釈もできる。

痛みを恐れないこと、それは困難を乗り越えるために必要な気概だ。

何かの壁にぶつかった時、どういった行動に出るか。

逃げるのか、それとも失敗を恐れず、何度も立ち向かうのか。

逃げることは悪ではない。だってそうでしょう?失敗は怖い、失敗は痛い。

しかし、失敗は成功のもとという言葉のとおりだ。失敗、痛みを恐れていたら、成功を掴むことはできない。ドMこそが成功への第一歩なのである。

 失敗を恐れない勇気をもっていること、それはドMであることと同義なのではないだろうか。我々は喜んで、いや率先してと言うべきか、痛みを知るべきだし、痛みを伴うと分かっていても行動に出る勇気を持つべきだ、それが成功へと繋がる。

 

福沢先生もきっとそういうことを言いたかったのだと思う。

我々のような性、いや人生の初心者はマゾであるべきなのだ。マゾになり一から物事のあり方を学ぶべきなのだ。

 

虐げられたことのある者が差別やいじめの是非を問えるように、

アナルを突かれ挿入されたから女性の気持ちがわかるように、

痛みを知っているからこそ、その立場に立って言えることがある。痛みを知らなければ、わからないことがある。

故に我々はマゾであるべきなのだ。Sになるのはそれからでも遅くはない。

そんなわけで僕は声を大にして言いたい。かわいい女の子に思いっきりションベンをぶっかけられたいし、ツバだってかけられたいと。思いっきり見下されて口汚く罵られたいし、靴下のまま踏みつけられたいと。

 

天は人の上に人を作らず・・・この言葉の意味をしっかりと噛み締め、万札を数枚握りしめて、我々は新たな一歩を、ドMのいろはを学ぶべくM性感へと踏み出すべきなのである。