今日の供養

もう10年くらい前に書いた文章を発掘したのですが、文章の繋がりがあまりにもなく、支離滅裂すぎて何を書いているのか、どうしてこの文章を書いたのか、どういう気持ちで書いたのか、何を考えているのかがどうやっても理解できませんでした。ていうか若干引きました。

それでも、いつかどこかの日本語が得意な誰かの目に止まり、どういう意味なのか、どういう心境だったのかなどを現代国語の授業ばりに解読して欲しく思い、文章として成り立っておらず人の目につくような形で残しておくのはひどく罪なことのような気がしますが、恥を忍んでここに書き残したく思います。

と思ったけど、恥ずかしさに耐えきれなくなったらそのうち消します。

 

 

 

 

骨折をして気づいたことがある。もし我々人類にちんこが二本はえていたら、俺は今オナニーができないなと。右手しか使えないのにどうやって二本あるちんこをしごいたらいいんだろう。
なんていうか、卒業証書って両手でうけとるじゃないですか。もし、右手しか使えなかったらそれって必然的に不可能なわけだ。
ってことはだ。ってことは、必然的に二本で一個みたいな風潮になるじゃないですか。ニコイチンポってやつだ。こちとらちんちん二本ついてるっていうのに、一本ですって、おいおいおい、ちょっと待ってくれと。そいつは変だと。
例えば、お尻の穴って皆さんあるでしょ?そこに、指一本いれて、いったりきたり、つまるところエントランスとイグジットを繰り返すのと、指を二本いれて、口からよだれたらしちゃって「スハーッ!スハーッ!スハーッ!イギーッ!!!!」っていうのとが、同じかっていったら、違うと思うんですよ。
そりゃあアナニーしてるっていう点においては同じですよ。けどそれをいったらもともこもないじゃないですか。じゃああなたは、米食ったらうんこ出た、ああ、うんこ=米っていう発想になるんですか?
答えは否、うんこ=米じゃあない。うんこ>米であることは明らかである。
ただ、ちょっと視点を変えると、うんこ=米にもなりうると。今日、僕はそれだけを伝えたい。
米っていう字を良ーく目に焼き付けた後、鏡越しの自分のお尻に目をやってほしいんですよ。じーっと尻を観察してるとね、見えてくるんですよ。
米っていう字が。
それで、ああ、なんだ、肛門かって。つまり、米からうんこが出るということは、うんこをくったら米が出ると。すごいこれって哲学的よね。ほら、ソクラテスも顔負け。顔負けっていうか黒ギャルに顔に糞を捻り出して欲しい俺は。
ソクラテスっていうと、無知の知なんていう言葉が有名なんですけど、
たとえば、うんこは食べ物であるということを皆さん知らないわけなんですけど、それを知らないと自覚することで、うんこを食べることに喜びを覚えようっていう彼なりの訴えだったんでしょうね。